2004年6月2日 若槻伸栄さんが急逝されました。まだ50歳半ばの若さ、驚きました。Robinの若い頃のかけがえの無い思い出に欠くことのできない人でした。多分、当時TOPを目指していたアーチヤーにとって彼の存在は忘れられないものだと思います。
TOPページの写真は説明にあるように、1970年8月に行われた第1回のオリンピック強化合宿で、当時の日本を代表するTopアーチャーの顔が写っています。この合宿での記録会は3回行われました。2回目の時に若槻さんはただ一人1215点をうって自信満々だった顔が今でも目に浮かびます。当時の日本記録はかく言うRobinが前年に出した未だ1100点台の記録。記録会とはいえ、いよいよ1200点が現実のものとなることを予感させた出来事でした。この後、10月11日神戸市王子で開催された第3回社会人選手権で1196点の日本新記録で優勝(翌年1252点の世界記録を樹立したかの中本新二さんが同点で2位)。前日の夜38.5度の高熱でふらふらしていた彼が気迫の優勝を遂げたことは強烈なインパクトを与えました。翌年のヨーク世界大会に代表として参加したのは当然です。
この日のRobinは1105点と不本意な成績で18位。高校2年生の亀井孝選手が1110点を出して将来を有望視されたことも記憶すべき出来事で、また直後の11月4日の全日本選手権で赤沢実選手が1234点の驚異的日本記録を出しことは忘れられません。若槻さんは1161点で3位でした。この事を思えば、6年後7年後に五輪・世界大会での2つの銀メダルを取る日本のアーチェリー界上昇の始まりであった重要な試合だったと思います。
若槻さんは1971年ヨークの世界選手権では梶川(5位)・中本(22位)・前田(59位)・村上(88位)とともに出場し52位。本大会はJ.Williamsが2445点で優勝。
若槻選手は1973年第2回全日本フィールド選手権で優勝(1972年の第1回は現全ア連事務局長の関政敏さんが優勝)器用な面も有ったんですね。
私は1972年春、大阪に転勤となり第一線を退いていてその後の交流はありませんでした。
この社会人選手権大会は確か第1回(?)都道府県対抗をかねていました。高校生の亀井選手がでていたのは京都府の代表としてだったはずです。Robinは東京都のメンバーでした。
左の写真は左から(敬称略)、前田(’67全日優勝、’67・’69・’71世界代表)、木村(’67世界代表)、西(現姓:目崎、’69世界代表)、私(’69全日優勝、世界代表)、若槻(’70社会人・’73全日F優勝、’71世界代表)、松島伸一(’66・’67インカレ連覇、’67世界代表)。
皆「弓バカ」で自腹で揃いのトラッドのブレザーを作りました。夢と熱意にあふれていて何事も手弁当でした。どこかの試合にアゴ足つきで連れて行ってもらう昨今と熱気のレベルが違うと感じませんか?
若槻さんが亡くなられた事を前田さんから聞かれた松島さんが、お住まいのロスアンジェルス近郊の
IRVINE(アーバイン市)から送ってくださいました。(もっともE−Mailなんで遠くはありませんが)。
若槻さんが松島さんと前田さんや私など昔からの筋金入り「弓バカ」を再び引き合わせてくれました。